世界ではさまざまなミルクティーが飲まれています。以下、人気のミルクティーをご紹介します。
インドでは紅茶のことを「チャイ」と呼びます。
チャイの主な材料は、紅茶の茶葉、ミルク、水、砂糖、スパイス数種類(入ったり入らなかったり、スパイスの種類や量はひとそれぞれ)。鍋で煮出してつくります。
スパイスが入っていない煮出したものもあり、スパイスいりチャイを、マサラチャイと呼んで区別したりします。
スパイスは、カルダモン、フェンネル、クローブ、シナモンなどが多く使われますが、黒コショウ、アニスなども用いられます。基本的にホットで飲みます。
スリランカで広くしたしまれるミルクティー。
スパイスは用いない場合が多い。細かい紅茶を細長いコットンの茶こしに入れ、紅茶をスピーディーに入れます。
別の容器に、粉ミルクと砂糖を入れて、入れたての紅茶を注ぎます。紅茶を入れていた容器と、粉ミルクと砂糖の容器の2つを使って、ミルクティーを高い位置から交互に移しながら全体を混ぜ合わせます。それによりミルクティーは泡立ち、なめらかで口当たりも柔らかくなります。基本的にホットで飲みます。
バブルティー(パールミルクティー、バブルミルクティー、ボバなどの呼び方もあり)は、台湾発祥のタピオカ入りミルクティー。近年の台湾スイーツ人気で、タピオカミルクティーは日本でも認知度高い。ネーミングの目新しさという点で、タピオカミルクティーをボバという名称でメニューにしている店舗も出てきています。アイスティーが人気。
香港で飲まれるミルクティー。コーヒーを加えるのが特徴です。紅茶、コーヒー、エバミルク、砂糖を用います。ホットとアイスあり。
日本でのみ使われるミルクティーの飲み方。
鍋で煮出して作ります。主な材料は、紅茶の茶葉、ミルク、水。考え方としては、日本風のチャイといえるでしょうね。ホット、アイスで飲みます。
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次に、少し珍しいミルクティー。
チベット、ブータンなど遊牧民の飲料習慣で、茶、乳、バター、岩塩を用いて飲みます。栄養補給を兼ねているのです。
団茶(黒茶(プーアールチャなど)を固まりにしたもの。遊牧民にとっては持ち運びやすい。)から作った茶にヤクの乳からつくるヤクバターと岩塩を加えて飲みます。モンゴルでは、団茶から作った茶に牛乳や、ラクダの乳と岩塩。モンゴルでは、団茶を入れ、ラクダの乳や牛乳に岩塩を加えます。
クリームティーあるいは、イーストフリジアンティーともいいます。
ドイツ北部のオストフリースラントで限定的に普及する習慣です。ロックシュガーをカップに入れ、紅茶を注ぎ、濃いクリームをたらして(かき混ぜないで)カップのところどころの味を楽しむ飲み方です。
(※イギリスの、紅茶とスコーンのセットのこともクリームティーと呼びます。日本では、クリームティーというとイギリスの方のクリームティーを考える人がほとんどだと思います。)
ところで、私たちが一般的なミルクティーとして考えるのは、ティーポットで作る、あるいはティーバッグ入り紅茶を作って、ミルクを加えるもの。ホットとアイスで楽しみます。
これ以外には、商品名や店舗により、ティーラテ、ティーオレなど異なる呼び名で呼ぶものもあるようです。
17世紀半ばから18世紀頃まではロンドンではコーヒーハウスが人気となりました。ビジネスマンの情報交換の場、商談の場などとして利用されていました。コーヒーハウスには業種によって異なる顧客を持つ、女性や子供の立ち入りができないなどの特徴を持っていました。このコーヒーハウスでは、コーヒーとともにお茶が飲まれていました。
18世紀に流行。メリーボーン、イスリントン、ラネラー、ハムステッド、ヴォグソール、ランベス、サウスワーク、バーモンゼイなど多くのガーデンができ、それぞれに魅力的なアトラクションを用意して人気となりました。男性、女性、子どもといったすべての人が楽しむことのできる場所でした。
◆ティールーム
19世紀の終わりころからオープン。
イギリスでアフタヌーンティーが始まったきっかけと言えるのは、7代目ベッドフォード公爵夫人 アナ・マリアが、ディナーまでの空腹をしのぐために、夕方ころバター付パンを食べたことだと考えられています。19世紀半ばのことでした。
ヨーロッパにお茶が紹介され、お茶の人気とともに茶道具が普及・発展していきました。
ドイツでは、磁器製造法の解明、イギリスではボーンチャイナの開発や転写法の開発などを経て、陶磁器産業は発展し、茶道具も普及しました。
現在でも世界的に有名な陶磁器メーカーはヨーロッパに多く、現在でも美しい陶磁器を作り続けています。
1773年12月16日、当時イギリスに支配されていたアメリカで、一方的な茶税に対して起こりました。ボストン港に大量の茶箱が投げ込まれました。これがアメリカ独立戦争の大きなきっかけとなり、アメリカの独立へとつながったことで知られています。
ご参考までに写真は、ボストンのお土産として売られている紅茶。木箱に入って売られています。ホントにお土産にぴったりですね。 中は、アールグレイのティーバッグが入っています。癖のない味。
政治・経済の戦略の駆け引きのなかから発見へといたり、茶の世界史における一大革命となった、アッサム茶の誕生についてご紹介します。
■アッサム種誕生について 謎の多い誕生の背景
さて、アッサム茶の品種である”アッサム種”はインドのアッサムにおいて発見された野生の茶樹で、ロバート・ブルース(Robert Bruce)が、1823年に発見したと一般的にいわれています。(そのとき発見した植物が真に自生する茶樹であると認められたのは後になってから。)
1787年、インドにカルカッタ植物園が、経済的効果をもつ植物や観賞植物の普及をめざした調査研究をさせることを目的として設立され、中国から運んできた茶も植えられていました。茶ではないかと考えられた植物が見つかると、茶樹であるかの基準は中国から運んだ茶樹が基準として、そこで判断されたわけです。
1823年の発見前後にもインドに自生する茶樹発見についての記述や、カルカッタへの鑑定依頼の記述がみられますが、いずれもはっきりとインド自生の茶樹であるとは認定されませんでした。
ともかく東インド会社が設立したカルカッタ植物園が認めなければ、インドに野生の茶樹が存在する事実は認められることはありませんでした。その背景には、カルカッタ植物園に中国種の茶樹しかなくて認定が難しかったという理由のほかに、政治的な要因もあったようです。つまり、東インド会社が中国貿易を独占していたので、インドにおいて野生の茶があると認められなかったようです。
東インド会社の中国貿易独占権は1833年に終わり、本国での茶の高い需要を満たすために今後の茶の確保に迫られることになりました。1834年、総督のウィリアム・ベンティング卿(Lord William Bentinck)がインドにおいて茶業委員会(The Tea Committee)を設置。中国種をインドへ導入し栽培できる可能性をさぐるのが目的でした。調査の過程において、インドには自生する茶樹があるということがわかったのです。
インドにおける自生茶を委員会に認めさせ、アッサム茶の栽培に尽力したのが、ロバート・ブルースの弟であるC.A.ブルースでした。
■アッサム茶の開拓者 C.A.ブルース
C.A.ブルース(C.A. Bruce)は、1824年、ジュンポー族の首長ビーサ・ガムから茶樹と茶の種子を入手して自ら栽培。そして、ブルースにやってきた大きなチャンスは1835年のこと。インド政庁からアッサムでの茶栽培の監督官を命ぜられました。ブルースの監督下で作られた茶は、1836年には最初の1ポンドがロンドンに送られました。1838年には、488ポンドの茶がロンドンへ送られ、その翌年にはロンドンにてオークションにかけられました。ロンドンでの専門家たちの評価は中国茶とは異なる特徴をもつがおおむね満足だったようです。
現在アッサムがインドの大きな茶産業となったのも開拓者としてのC.A.ブルースの努力があったおかげなのです。
アイスティーの始まりは、アメリカから。1904年夏、セントルイスの万国博覧会で紅茶のPRをしていたイギリス人、リチャード・ブレチンデンが氷を入れた冷たい紅茶を提供し人気を博したことに始まるといわれています。